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楊名時先生のエピソード(33)
冷水摩擦
立春とは名ばかりで厳しい寒さが続き、日本海側では大雪になっております。インフルエンザも流行っておりますが、皆様お元気ですか?
楊名時先生の一日は、冷水摩擦から始まります。朝起きて、洗面所ですぐに上半身裸になり、冷水摩擦を行います。寒い時でも暖房をつけずに20分ほど丁寧に体をさすり、その後ゆっくりとヒゲをそります。
楊名時先生の色白の体は冷水摩擦により温まり、肌はピンク色となり生気溌溂になります。そして、元気な声で「おはようございます!」とあいさつし、家族のだれよりも上機嫌でよい顔つきをしています。
冷水摩擦は寒中や朝早く仕事にでかける時でも休むことはなく、楊名時先生が80歳になるまで毎日続きました。楊名時先生は鼻炎アレルギーがあり、小さい時はよく風邪をひかれたそうです。その体質を改善するために冷水摩擦を始められたとのこと。
この冷水摩擦と太極拳のお陰で、楊名時先生が風邪をひき医者にかかったことは、50年間一度もなかったそうです。何事も継続は力なりです!
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(32)
正月料理・大根餅
皆さま、「大根餅」をご存じですか?大根餅は中国のお正月料理には欠かせないものです。私が初めて楊名時先生と大根餅を食べた時、「え、これが餅?」と驚きました。私は日本の餅をイメージしていたのですが、大根餅はもち米ではなく、上新粉と浮き粉とよばれる小麦粉で作るのです。
水で溶いたその粉に大根の千切りを混ぜ、うま味を出すために中国ハムや干し椎茸、干し貝柱、干しえびなどを加えてセイロで蒸すものです。とても美味しく、しかも消化の良い料理です。
楊名時先生は毎年暮れの30日、横浜中華街の「有昌」で大根餅を買い求めていました。直径25センチ、高さは10センチぐらいの大きな大根餅です。これを横浜から電車に乗って持ち帰るのですから、楊名時先生はいかに大根餅がお好きだったか、お分かり頂けると思います。
食べ方は、日本のお餅ぐらいに切り、フライパンに油をしいてこんがりと焼き、しょうが醤油で頂きます。
楊名時先生だけでなく、帯津良一先生も大根餅が大好きで、お酒を酌み交わしながらの夕食を、楊名時先生のお宅で楽しまれておりました。
楊名時先生が亡くなられて、7年が経ちました。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(31)
体が微笑む
天高く馬肥ゆる、実りの好季節になりました。今年も太極拳のお仲間より、栗を頂きました。丹波栗の見事な粒ぞろいのもので、自宅の庭に栗の木があるのだそうです。そして、荷の中に「自然の贈り物に感謝」と一筆箋が入っておりました。早速、栗ごはんと渋皮煮を作り美味しく頂きました。
栗が熟し外側の毬が割れることを、栗が笑う・栗笑むと擬人化して言いますが、私は栗を見るといつも楊名時先生の次の言葉を思い出します。
「体が微笑むよう」と。
太極拳を稽古したあとは、どなたでも心と体がほぐれ、風呂上がりのように気持ちよくなります。この状態を楊名時先生は「体が微笑む」と表現したのです。まさに名言です。
副交感神経が優位になり、心身がほぐれますと自然に顔が穏やかになり、心にも余裕が生まれ人を許すことができるようになります。そうなれば、自分だけではなく周りの人々をも幸せにすることができます。
そのことを、楊名時先生の言葉は教えております。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(30)
縁は異なもの味なもの
この夏、長野県の須坂に行った。うちの息子のお嫁さんの実家はここで蕎麦屋をやっている。美味しい十割蕎麦や、鳥の燻製、夕顔などの珍味や地元のお酒に舌鼓を打ち話題は盛り上がった。お店には有名人もけっこう来るようで色紙や写真が置いてあった。健康法の話になった時、私が楊名時太極拳を長い事やっているというと、お父上は膝をポンとたたいて奥の部屋へ消えて入った。にこにこしながら立派な額に入った色紙をもってきた。
な、なんと楊名時先生の直筆の色紙ではないか。柔らかで丸い温かみのある懐かしい字。
以和為貴 同心協力 楊先生がよく黒板に書かれた言葉―
聞くと、この時、楊名時先生にはお付きの男性がふたりいて三人でお店に来たそうだ。お酒が好きそうなので、取って置きのドブロクをサービスで出したら喜ばれて、美味しいと三杯も飲まれたとの事。そして帰り際に「来年もまた来たいけど、もう来られないと思うから色紙があったら」と、お渡しすると「あなたの家の家宝にしなさい」と言われ、にっこり笑われたという。
この蕎麦屋の屋号は“あがれ家”で、家宝に掛けたのだろうか。
色紙の日付は2004年11月2日、その翌年の7月に楊先生はお亡くなりになった。お父上は、来年は来られないという言葉がとても気になったと言っていた。楊先生はわかっていたんだと私は確信すると同時に哀しく涙ぐんでしまった。
でも、でもね。すごい事だなと思うのは遠く離れた場所でも、縁は繋がっているということ。
有縁千里来相逢 無縁対面不相識 この言葉も黒板によく書かれたー
(縁があれば遠く離れていても逢いに来る。縁がない場合は目の前に居てもお互いに知らない。)
ふと、この言葉が頭に浮かんだ。楊名時先生と須坂で、しかも息子のお嫁さんの実家で巡り会えるとは”縁“とは不思議なもの。
2011年9月 山名暁美


楊名時先生のエピソード(29)
「型」と「形」
最近読んだ本に、プロ野球・楽天イーグルス野村克也前監督の『私が野球から学んだ人生で最も大切な101のこと』(海竜社刊)があります。その本の中に、「型」と「形」について興味深い話がありました。
野球、武術、芸道においてそれぞれ型がありますが、その型の奥にある目に見えない形を見つけ出さなければ、本物になれないという。形は「型」と「ち」が統合されたもの。「ち」は血・乳・霊であり、精神的なパワーを意味している。したがって、形(カタチ)とは外面の型と内面の精神的な力が表現されていなければならないと述べています。
型が形として表現されるには、太極拳では5年や10年ではできません。20年位はかかるように思います。楊名時先生が八段錦と簡化太極拳24式に絞って指導された真の意図は、型から形まで私たちを到達させるためだったように思います。太極拳の40年の稽古を通して、そのことが解ってきました。
楊 麻紗

楊名時先生のエピソード(28)
生涯の親しい友
7月2日に行われた「楊名時先生七回忌法要」は、皆様のご協力により大成功でした。楊名時先生も、天国で喜んでおられることでしょう。七回忌法要の申込書に、竹内敦師範は短い文を書き添えており、まだ無名に近かった当時の楊名時先生を懐かしく思い出しました。その竹内敦師範の文を紹介します。
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40年前になりましょうか、八重洲口の教室に楊名時先生をお訪ねし、入門、がきっかけでした。「あなたはまだお若いが、もしこの太極拳があなたに合うようであれば、太極拳はきっと生涯の親しい友になるでしょう」との先生のお言葉通りになっています。誠にありがたいことで、いつも感謝しております。
竹内敦

楊名時先生のエピソード(27)
ほどほどに
今年の梅雨明けは全国的に早く、厳しい暑さが続いておりますが、皆様お元気ですか?
今年の夏は“節電”のことも考えなければいけませんので、どのような暑さ対策をとればよいのか迷うところです。
太極拳の稽古に関して言えば、例年よりクーラーの温度設定が高いため、教室の温度は丁度良いように思います。電車も冷え過ぎがなくなり、冷え症の私は助かっています。
さて、楊名時先生は「人間も自然の一員であるため、四季に合わせた稽古が必要であり、そうでないと体に負担をかける」と言われました。
夏は暑さで体力が落ちますので、太極拳の稽古は長時間行なったり、あまり集中しすぎないことや、腰の高さを加減することが、大切です。どんなに良い健康運動でも、やりすぎは禁物です。
特に夏場は「ほどほどか足りないぐらい丁度良い」が楊名時先生の教えです。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(26)
陽の気は癒しのオーラ その2
楊名時先生は、常々次のように言っておられました。「僕は楊だから、陽の気が大好き」と。
太極拳をする者は、にこやかな顔でしていただきたい。心にわだかまりがあったり、悩みがあったり、体の具合が悪いと、表情が曇ります。そういう時は、顔の表情が曇るだけでなく、マイナス(陰)の気が出ていることが多いのです。それらを含め、楊名時先生は、顔の表情をにこやかにして、陰の気を出さないように心がけて欲しいとよくおっしゃっておられました。
体を動かすことで、陰の気を、陽の気に変えることができると思います。楊名時太極拳やっていますと、やり始める前は何かわだかまりがあったとしても、行ったあとは、心身共に爽快になりますので、自然に陰の気が、陽の気に変わることが実感することができるのです。同時にわだかまりも消えていきます。
物事を陰にとらえると、それが自分自身の気となり、雰囲気となって、周りに漂っていくのではないかと思います。楊名時先生は、その人の前に立つと、その人が何を考えているのか分かる、ということを申されたこともあります。私も四十数年、楊名時先生の許で太極拳を行うようになりましたら、見た瞬間、その人が持っているオーラ、気というものが分かるようになりました。私自身、陽の気を出すように心がけてお教室に入ります。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(26)
陽の気は癒しのオーラ その1
この世の全ての物は素粒子の結合から成り立っており、素粒子は常に振動しております。その振動からエネルギーが生まれ、振動数の違いや振動の幅によって、波長が違います。
人の生命エネルギーが体外に放出されたものをオーラと呼び、その人の心のあり様を周りの人達に伝えています。
楊名時先生の平熱は35.8度です。しかし、側にいるととても暖かく、36.5度位に感じます。これはどういうことなのでしょうか。
私流に考えれば、先天的にオーラが強いのではないかと思います。しかも、そのオーラが先生の側にいるだけで人を癒す「暖かい気」なのです。常滑のS師範は、千人も入る大きな会場で楊名時先生が舞台に登場された途端、ビリビリと痺れるような気を感じたそうです。
そのような楊名時先生と、四十数年も同じ教室で稽古を積み、呼吸を肌で感じ、気の交流ができたことは無上の喜びでした。師に一歩でも近づき、師の境地に達したいと願って、日々太極拳の稽古に励んでいます。人から「麻紗先生は楊名時先生の型と精神を、一番受け継いでいますね」といわれると、とても嬉しくなります。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(25)
ふんわりと柔らかく
桜花爛漫、ようやく春の到来です。新学期も始まりました。しばらくお休みしていた楊名時先生のエピソードも再開です。
太極拳の型についても理論についても、楊名時先生は、細かい指導をすることはあまりありませんでした。とにかく気持ちよく体を動かすことを優先していました。
健康太極拳を学ぶ人が、第一心がけることは上手く舞うことではなく、いかに心を開放して「気持ちよく舞うか」と。呼吸も自然に行い、体のどこも窮屈にならないようにします。
「太極拳を舞う時はふんわりと柔らかく」と先生がよくおっしゃっていました。私もこの言葉が大好きです。中国の難しい表現をつかわず、あえて感覚的な言葉を選択。太極拳の長年の稽古から体得した要諦を、かみ砕いたやさしい言い方で、ゆったりとした口調で話される楊名時先生は、やはり太極拳の大家でありました。
楊 麻紗

楊名時先生のエピソード(24)
歳寒くして松柏を知る
街路樹はすっかり葉を落とし、冬の寒さがひしひしと感じられるようになりました。今年も残り少なくなりました。皆様お元気ですか?
楊名時先生はこの時期になると、必ず次の句を黒板に大きく書きます。「歳寒知松柏」と。松はマツのこと、柏はヒノキを指し、松柏は常緑樹の代表です。
落葉樹は春や夏に青々と繁っていても、冬になると凋んだり、裸木になったりしますが、松柏だけは凋まずに青々として色を変えずに凛と立っています。このことは寒い冬にならなければ分かりません。
それと同じように、私たち人間も逆境になった時に初めてその人の真価が分かるのです。順境の時は人が応援しますが、逆境の時は人が離反するのが世の常だからです。
この句は人の道として変節しないことの大切さを説いたもので、楊名時先生が毎年紹介する意図は、太極拳の仲間の結びつきは春夏秋冬変わらぬ松柏のようであって欲しいとの願いなのです。
出典は『論語』の子罕第九、「子曰わく、歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るることを知る也」です。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(23)
太極拳の呼吸は吐き切らない
今年の9月初旬、脱サラして故郷の桐生に帰り、天蚕による織物に挑んでいる人を紹介したNHKの番組がありました。「天蚕」という聞きなれない言葉に興味をそそられ、その放送を見ていると、蚕が糸を吐きながら繭を作るシーンが映し出されました。初めて見る蚕の様子に見とれてしまいました。
天蚕は別名「山繭」と言われ、クヌギやナラを食べ、夏ごろに黄緑色の繭を作り、その天然の色の糸で織った着物が薄緑色でとても上品なものでした。
同時期に楊名時太極拳のある書物に、「太極拳の呼吸は息を吐き切ります」と書かれているのを目にし、驚きました。なぜならば、「太極拳の呼吸は、いつも楽に、細く長くゆったりとして、息を詰めたり切ったりしてはいけません」と楊名時先生に指導されていたからです。中国では昔から太極拳の呼吸の要諦として「春蚕吐糸、連綿不断」の言葉があるので、肝に銘ずるようにと教わりました。
呼吸法には色々なやり方があり、吐き切る利点もあるのですが、太極拳は意識を集中させながらバランスをはかる全身運動ですから、あまり呼吸に捉われすぎると窮屈になり、柔らかくゆったりとした動きが乱れてしまいます。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(22)
紅葉の栞
記録的な猛暑が過ぎ、やっと秋らしくなったと思ったら、10月26日はもう冬の到来で札幌は初雪、大阪と関東では木枯らし一号が吹きました。また、29~30日台風の襲来と、先週の日本列島は大荒れでした。
そんな10月26日、長岡に行ってきました。小説「雪国」で有名な上越国境の長い清水トンネルを抜けると、越後湯沢ですが、車窓から眺める谷川岳はすっかり雪化粧をしていました。近くの山々はまだ青く紅葉していません。そのチグハグさが今年の異常気象を表しているようで、薄ら寒さを感じました。
楊名時先生は、旅行が大好きでした。その旅が公的でも私的であっても、博物館や記念館などに入らず、もっぱら野外の景色を眺めたり、気に入った大樹の前に立ち気功を行ったり、散策をしたりして”浩然の気”を養うことが常でした。
この時期、楊名時先生は旅先で拾った紅葉を手帳にはさみ、栞にして東京に持ち帰ります。それが私や教室の皆さんへのプレゼントだったのです。そして、「どこどこの紅葉だよ、きれいだね...」と言って、ニコニコしながら見せてくださる、心配りの厚い楊名時先生でした。
楊名時先生の紅葉の栞を思い出して、長岡のホテルの下を見ると、桜紅葉がチラホラと始まっていました。一枚を拾ってきましたので、皆さんにお届けします。楊名時先生のお心を感じていただきたくて...。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(21)
梅蘭芳の背中の演技
日本と中国が国交回復して今年は38年になりますが、国交回復前は民間の文化交流が盛んで、京劇の代表団も来日されました。楊名時先生は良い演目があると、太極拳の仲間を20~30人連れて、それを観に行きました。5回位は先生と観ています。
京劇と言えば梅蘭芳が有名で、楊名時先生は太極拳の授業中に、何度も梅蘭芳の話をされました。梅蘭芳(1894~1961)は女形の京劇俳優で、祖父母・父母とも有名な京劇俳優と言う梨園の名門で育っています。1956年5月に来日し、60歳とは思えない艶のある演技で日本のファンを魅了し、歌舞伎の中村歌右衛門と面会し意気投合したことなどは、どこかの記事で読んだことがありましたが、私は一度も梅蘭芳の舞台や映像でも見たことがありません。
楊名時先生は、梅蘭芳は背中の演技が上手な役者だったと語っていました。顔は正面を向いていても、常に背中にも神経を配っていたとのこと。「私たちの太極拳も、人に見える正面だけでなく、背中にも注意を払って演舞しなければいけないよ!」と教えて頂きました。
梅蘭芳の出し物で楊名時先生が一番好きなものは、「貴妃酔酒」です。絶世の美女・楊貴妃が酒に酔って舞う姿は、どんなに美しかったことでしょう。
楊 麻紗

楊名時先生のエピソード(20)
深大寺と時雨茶屋
6月に入り、木々の青葉が日に日にその色を深めています。調布駅からバスで20分程の武蔵野の面影が残る緑に囲まれた場所に、深大寺があります。深大寺は浅草・浅草寺に次ぐ都内第二の古刹であり、豊かな湧き水の出ることでも知られています。
楊名時先生はこの深大寺が大好きでした。5月の連休と紅葉の頃にはよく家族で出かけました。自宅が総武線の東中野でしたので、30分前後でいける近場だったことも理由の一つです。
深大寺参拝と境内周辺の散策を終えた後、楊名時先生が必ず立ち寄る所が「時雨茶屋」です。ここで温かい蕎麦と野草てんぷらを食べるためです。この注文を変えたことは、一度もありません。
その理由を聞くと、楊名時先生が講師を務めるアジア・アフリカ語学院が近くにあり、生徒を連れて何度も食べに来て、美味しかったからだそうです。野草は地元で採れる物を使ってるとのことで、時雨茶屋の名物になっています。
楊名時先生は大の蕎麦好き。健康のために温かい蕎麦しか食べませんが、それをすすりながら「美味しいね」と破顔一笑する姿が、今でも忘れられません。老舗の時雨茶屋が閉店したことを、最近知りました。楊名時先生も天国で淋しがっていることでしょう。残念ですね!
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(19)
道着の帯
楊名時先生は「道着は稽古着であると同時に、最高の舞台衣装」とよく言われておりました。能舞台で太極拳を舞われた楊先生の道着姿は、凛とした気高さを感じさせます。白の道着に黒帯が、全身を引き締め安定感を与えます。
楊名時先生の稽古中の帯は、空手の恩師・故中山正敏先生から贈られたものが一番のお気に入り。50年近く締め込まれたその帯は、ほつれて糸状になっており、両端に刺繍された名前の文字は読むことができません。
因みに楊名時先生から贈られた私の帯は、「楊家太極拳師家楊名時」「渋谷麻紗恵存」と刺繍されており、40数年この帯を愛用しております。帯を見れば太極拳の稽古量が、一目瞭然です。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(18)
旅にも道着持参
楊名時先生は道着が大好きでした。楊名時太極拳の正式なユニホームは道着ですが、楊名時先生が特に日本の空手を愛好されたことに由来します。手足の長い楊名時先生は、誰よりも道着の似合う方でした。
楊名時先生は太極拳の指導のかたわら、大学で中国語を教える教育者でもありました。お気に入りのハンティングワールドの大きなカバンの中に、いつも教科書と道着を入れておりました。授業の終わった後、午後か夜に太極拳の稽古があるからです。太極拳の教室が増えるにつれて、埼玉の東松山にある大学から、神奈川の横浜、そして東京の自宅に帰るということが、週の内で2,3回ありました。早朝家を出て帰るのは夜中です。このサイクルは、70歳の定年まで続き、「元気だな~」といつも感心しておりました。
道着はプライベートな旅行にも持ち歩きました。「重いので持って行かなくても」と私が言うと、「旅先で太極拳の稽古をするし、寝間着にもなり便利だよ。何よりも道着はボクの武士の魂・刀だよ!」とニコニコと答えるのでした。おだやかな笑顔の中に、武道人の強い芯を感じました。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(17)
胸に涼風を
私たちは自然の中に生きています。特に日本は四季の変化に恵まれています。そんな日本が大好きな楊名時先生は、太極拳の夏の稽古の仕方を、「胸に涼風を」と表現しています。
太極拳の動きの中で涼やかに見せるためは、足の運びを上品にすることが大切ですが、胸に涼風とは目に見えない内面やイメージを言ったものです。
例えばいつもの教室を白樺の林、または湖畔に置き換えそこで太極拳を舞っているとイメージするのです。そうすると不思議なことに、脳が反応して体が涼しく感じるのです。
そして一番大切なのは、心の涼しさ。自我を捨て、拘わらない心で太極拳を舞えば、おのずと内面に涼風が吹きわたります。
楊 麻紗


楊名時先生のエピソード(16)
共存共栄
楊名時先生が「養心会」を作りたいと考えたのは、亡くなる5、6年前だと思います。この構想は私だけでなく、何人かの古い仲間にも話されておりました。
組織が大きくなるにつれ、楊名時先生の求めていた太極拳とは少し違って来たのでしょうか。淋しい表情で養心会のことを何度も私に話すようになりました。
ある時、私は「養心会を作ることは、今ある組織の分裂ではないにですか?」と尋ねましたら、即座に「お前は小さい。分裂ではなく発展ではないか!一つの組織で全てができる訳がない。一つが三つになり、三つが五つなる。これは自然の理である。十や二十あっては困るが、五つぐらいの組織があってそれぞれが特徴を生かして、楊名時太極拳を普及させていくのがよい。そうしなければ大きな発展はない。“共に生存し、共に繁栄する”ことが大切なんだよ」と。
楊名時先生はやはり中国人!度量の大きさが違うと感心し、納得したことを今でも強烈におぼえております。
楊 麻紗


沖縄の踊りの輪に入る楊名時先生
楊名時先生のエピソード(15)
人の心は天地と同じ
沖縄に、空手の大家八木明徳という方がおられました。楊名時先生より2年ほど早い2003年に故人となられましたが、生前、楊名時先生は八木明徳先生を大変尊敬し、親交を深められました。空手の道を歩む大先輩としてだけでなく、「麻雀」を好む親しい仲間でもあったようです。両大家の麻雀の腕は、なかなかのものだったと聞いております。
楊名時先生が八木明徳先生から教示された言葉が、「人心同天地 血脈似日月」で、人の心は天地と同じ、血脈は日月に似たりと読みます。楊名時先生はこの言葉が大変気に入り、「太極拳にピッタリだ!」とおっしゃって、稽古の中で何回も紹介されました。
信念を貫く志の高さと、人を許せる天地のような大きな度量を持つこと。これを太極拳の稽古の中で培うことの大切さを力説されておりました。この言葉のように、広い広い心で人を許すことが出来たら、争いが消えみんな幸せになると思うのですが...。
楊 麻紗
※ 八木明徳(沖縄県指定無形文化財「沖縄の空手・古武術」保持者)

コバルトブルーの沖縄の海


楊名時先生のエピソード(14)
ありがとう
2008年のNHK調査で、日本人の一番好きな言葉は「ありがとう」でした。「ありがとう」の一言があるかないかで、人の気持ちやその場の雰囲気がずいぶん変わります。中国語の「シェシェ」や韓国語の「カムサ」は感謝の気持ちを表す言葉です。
楊名時先生は「ありがとう」の言葉が大好きでした。家庭生活や仕事はもちろん、タクシーの運転手やトイレの清掃の人に対してもとても丁寧な語調で「ありがとう」を言うので、言われた側が温かい気持ちいっぱいになります。
「ありがとう」の言葉が自然体で出る楊名時先生は、誰からも好かれ、尊敬されました。平成17年7月3日、楊名時先生がこの世を去る時も、「ありがとう」と私に言ってくれました。
小林正観氏は「ありがとう」をたくさん言うと、幸せになれると解いております。楊名時太極拳の終わりの挨拶には必ず、「仲間と共に太極拳が出来たことに心から感謝します」という意味で皆が呼吸を合わせ「シェシェ」を言います。「ありがとう」をどんどん言い合って、幸せになりましょう。
楊 麻紗

楊名時先生のエピソード(13)
八段錦の膝の屈伸
八段錦は中国古来より伝わる健康運動で、流派もたくさんあります。楊名時先生は中学校の時に国術部に入り、馬先生より「八段錦」を太極拳の準備運動として習ったそうです。
昭和42年1月、楊名時先生が日本で初めて太極拳の指導をされた武道館でも、馬先生のスタイルを踏襲されました。しかし、馬先生の八段錦そのままでなく、動きをより柔らかくゆっくりとしたものにアレンジしました。そして、「動く禅」としての楊名時太極拳に、心身ともにすんなりと入っていくために、欠くことのできない準備運動として完成させたのです。
八段錦「背后七顚百病消」の動きは、太極拳の終わったあと整理運動として行いますが、武道館時代には膝の屈伸はしませんでした。昭和50年頃、新宿の朝日カルチャーセンターで行ったのが最初だったと思います。年配者に膝痛が多いと聞き、予防のために、楊名時先生が新たに膝の屈伸を加えたものです。
本来は7回かかとを落とす運動ですが、教室では3回に省略し、3回目に呼吸とともに膝を深く折り曲げるやり方をとっています。
楊麻紗

楊名時先生のエピソード(12) 太極拳の品格
楊名時先生は常々、「楊家の太極拳は清王朝の方々に太極拳を教えたので、何よりも品格を重じた」とおっしゃっておりました。従って、楊名時太極拳も、品格を下げてはいけませんよと。
では、その太極拳の品格は、どこから生まれますか?と尋ねましたら、即座に
「打算をしないこと!」
と答えられました。楊名時太極拳は技の上手下手を云云したり、競い合ったりするのではなく、素直な心でその人の一番楽な状態で体を動かして舞うため、舞う人の人格が表れるのです。
人に格好よく見せようとか、人を許すことができない人、てらいのある人の太極拳はどこかに力みがあり、癒しの太極拳になりません。全ての世俗を忘れて、空間の中に溶け込むような感じで動くとが大切です。
「太極拳は人なり」です。太極拳を稽古することは、健康を維持するだけではなく、日々人格を磨く修行でもあるのです。
楊麻紗


楊名時先生のエピソード(11)
見取り稽古
楊名時先生の指導法は、見取り稽古でした。型や足の動かし方といった型の説明は、一切行いませんでした。まして手取り足取りの個人指導など、一度も見たことも聞いたこともありません。ただひたすら先生の動きを見て、それを真似て覚えるのです。
40年来の稽古の中で、楊名時先生が強調されたことは、「心の自由」でした。無心で太極拳を舞うことにより、型を超えた“自然との一体感”をつかんで欲しかったのだと思います。
楊麻紗


楊名時先生のエピソード(10)
夏の稽古
連日、猛暑の日本列島ですね!主人である楊名時先生が、夏場の稽古についてよく話されたことを、思い出しました。
「太極拳は陰陽が大切なので、夏の暑いときの稽古は、運動量を少し加減をすること。つまり、腰の高さをあまり低くしないこと。また集中力を高めすぎないこと。言い換えれば、ほどほどの稽古量で行なう」
「太極拳を涼やかに舞うこと。その涼やかさは、足運びからくる」
楊麻紗


楊名時先生のエピソード(9)
抱一龕道場道場
楊名時先生が昭和49年の冬に、日本武道館を去られてからまもなく、抱一龕(ほういつかん)道場で楊名時先生の太極拳の指導が始まりました。抱一龕道場は故中山正敏先生(元日本空手協会主席師範)の個人の道場で、中山正敏先生が失意の楊名時先生を暖かく迎え入れて下さったものです。楊名時先生は昭和18年に留学生として来日されて、京都大学政治学科に入学されました。卒業後上京され、東京中華学校の校長を勤められるかたわら、日本空手協会で空手を中山正敏先生から指導を受けました。楊名時先生は日本の武道を好みましたが、特に空手は大好きで、中山正敏先生のことをとても尊敬しておりました。その中山先生の道場で太極拳の指導が出来ることを、楊名時先生は非常に感激し、又恩義に感じておりました。楊名時先生は空手七段です。
昭和62年に中山正敏先生が逝去された後も、道場に通うときは恩師の好物だったメロンを携え、仏壇に供えるのが常でした。その時は、秋子未亡人と中山正敏先生の思い出をしみじみと語り合ったと伺っております。
メロンを見ると、私は楊名時先生と中山正敏先生との師弟の絆の強さを感じます。
楊麻紗


楊名時先生のエピソード(8)
和して同ぜず
楊名時先生は昭和48年の冬に、日本武道館を去られました。日本の武道の殿堂に、他国の、しかも健康法がうたい文句の太極拳を指導する楊名時先生を、快く思わない先生方がおられたからです。しかし、これが去られた直接の原因ではありませんでした。手塩にかけて育ててきた某弟子から、心ない暴言を吐かれたために楊名時先生は武道館を去る決心をされたのです。
その暴言とは、
「私たちが学ばなければならないのは、中国政府の制定した太極拳で楊先生の太極拳はそれと違う。本当の太極拳ではない」と。
暴言が稽古の後に吐かれたのならまだしも、皆のいる稽古中にその暴言は吐かれました。その時の楊名時先生の心中を思うと、今でも居たたまれない気持ちになります。
ところが、楊名時先生はやはり大人です。心ない弟子の暴言に対して、顔色ひとつ変えず「和して同ぜず」という言葉を残し、日本武道館を去られたのでした。
※ 和して同ぜず
『論語』の子路第十三に出てくる言葉。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」。
意味は、徳のある人は主体性を持って人と調和するが、訳もなく同調するようなことはしない。教養がなく、心が正しくない人はその逆である。
楊麻紗


写真:昭和47年6月 日本武道館(畳の教室)に於いて
楊名時先生のエピソード(7)
三笠宮崇仁殿下
昭和46年頃、日本武道館に入会された三笠宮崇仁殿下との思い出も印象に残るものでした。私は三笠宮様のお茶の接待役を仰せつかりましたが、三笠宮様はとても気さくな方でしたので、私はあまり緊張することはありませんでした。
教室で、前半の稽古が終わってから楊名時先生のお話を聞かれるとき、三笠宮様はいつも背筋を伸ばし、決して姿勢を崩すことはありませんでした。そして、熱心にメモをとりながら、楊名時先生のお話に頷いておられたお姿が忘れられません。
スキー、ダンス、乗馬などスポーツ万能の三笠宮様のお体はとてもお柔らかく、太極拳も柔軟で素直な演舞をされていました。昭和47年6月27日、ホテルニユーオータニで開かれた楊名時先生『太極拳』出版記念会に、三笠宮様は妃殿下とご出席下さいました。楊名時先生と私たちは、大変名誉なことと感激したのを覚えております。
警備の問題もあって、三笠宮様は3年位で日本武道館に通えなくなりましたが、楊名時先生とはその後数回会食をされたと聞いております。
それから約30年の歳月が流れましたが、三笠宮様と楊名時先生とのご縁は切れておりませんでした。平成16年10月9日に行なわれた楊名時先生「傘寿のお祝い会」に快くご出席をご承諾され、日本武道館で楊名時先生が話された当時のメモをご披露し、出席者から感嘆の声が上がりました。そして、傘寿のお祝い会から1年後、誰も予想していなかった悲しい出来事が起こりました。それは、楊名時先生の急逝です。平成17年9月29日、帝国ホテルで行なわれました「楊名時先生お別れ会」に、三笠宮様はご出席下さいまして、楊名時先生と最後のお別れをされました。
楊麻紗


楊名時先生のエピソード(6)
真夏の日比谷公園
昭和48年、日比谷公園での太極拳も忘れられない思い出です。真夏の8月に楊名時先生と、10人ぐらいの仲間で太極拳のデモンストレーションを行ないました。ちょうどお昼時で、公園には沢山の勤め人などが来ており、物珍しそうに私たちの太極拳を見ていました。中には、頭のおかしいグループがこの日盛りに何をやっているのか、と言いたげな目つきで通り過ぎる人もおりました。
私たちは、そういった周囲の「気」を敏感に受けながらも、悠然と太極拳を演舞しました。あの時の暑さと噴水の白さを、いつまでも忘れることができません。
先日、弁護士会館に行きました。弁護士会館は、日比谷公園の前にあります。当時のことを思い出しながら、公園の噴水の前に立ちました。噴水は昔と同じように、白い水を空へ噴き上げていました。
楊麻紗


楊名時先生のエピソード(5)
テレビ出演
残暑お見舞い申し上げます
今年は全国で記録的な残暑が続いておりますが、皆様如何お過ごしでしょうかお伺い申し上げます。お待たせいたしました。楊名時先生のエピソードの続きを、ご紹介いたします。
昭和46年頃には、楊名時先生の太極拳をマスコミが取り上げるようになりました。中山千夏氏や黒柳徹子氏、久米宏氏らが司会を務めたワイドシヨーにも出演しました。中でも、野末陳平氏が司会するテレビに出演したときのことです。与えられた時間は2分。この短い時間で太極拳の紹介をして欲しい、と言うのがテレビ局の要望でした。
いろいろな打ち合わせの後、いざ本番!となった時、楊名時先生はゆっくりと「十字手」を行ないました。予備姿勢の十字手だけで2分は過ぎてしまい、肝心の太極拳の型を紹介することはできませんでした。打ち合わせ通りに行かなかったことを、番組終了後に野末陳平氏は苦笑しておりました。
テレビ局を出るときに、「どうして打ち合わせどおりにやらなかったのですか?」とお尋ねすると、楊先生は泰然として答えられました。
「2分で太極拳を紹介するのは無理だよ。太極拳はゆっくりやる所に意味がある。その特徴を曲げて速くするのはいけないよ」と。噛んで含めるようにおっしゃった楊名時先生のお姿を、今でもはっきりと覚えております。そして、どんな状況下に置かれても太極拳の本質を忘れてはいけないと言う訓えの深さを、改めて感じております。
楊麻紗


楊名時先生のエピソード(4)
太極拳?南極圏?
昭和35年頃、楊名時先生が日本武道館で太極拳を指導されておられたときのことです。
「今は太極拳が認められなくても、あと十年もすれば人々が疲れて安らぎや癒しを求めるようになる、必ずなる。それまで焦らずゆっくりと太極拳の種を蒔きましょう。種を蒔かなければ、芽は出ないのですから」と、よくお話をされました。
楊名時先生は、自ら太極拳の宣伝をすることはありませんでした。どうして宣伝をしないのか、お聞きしました。その時、「自分で売り込むと相手より低くなる。相手が頼みに来るまで待ちましょう」と答えられました。その言葉どおりに、40年頃にはマスコミが太極拳を取り上げるようになりました。楊名時先生の辛抱強さと中国人の誇りを、私は強く感じたものです。
また、昭和46年に『太極拳』の本が出版されたときのことです。著者である楊名時先生が銀座の大きな本屋に行き、店主に
「タイキョクケンの本ありますか」と尋ねると、
「タイキョクケン?知らないね。南極圏、北極圏なら知っているが」と。その時の楊名時先生の答えが奮っていました。
「南極圏、北極圏よりももっと広い宇宙の涯のことだよ」
店主はその意味が分からず、ポカンとしていたそうです。店主は太極拳の拳と圏とを間違えたのですが、この笑い話は当時いかに太極拳が知られていなっかたかを示すエピソードとして、強く印象に残っています。

楊名時先生のエピソード(3)
武蔵よりも、万人の健康
楊名時先生は、中国武術だけではなく、柔道、空手、合気道など日本の武道をとても好みました。特に空手は大好きで、日本空手協会の元主席師範中山正敏先生(故人)のもとで、日本武道の心・技・体を学び、修練を積まれ空手七段を取得されました。
そして、日本武道の良さと小さいときより習った中国の楊家太極拳を融合させた、楊名時太極拳独自のスタイルを創りました。このスタイルは、40年後の今日でも変わりません。すなわち、稽古の前後のお辞儀と立禅をすること、室内の稽古は裸足であること、道着を着ること、音楽をかけないこと、準備運動として「八段錦」をやること等です。
太極拳の実技だけでなく、中休みの時の講義を伺うのも楽しみでした。お話の中心は、古今の人生哲学や太極拳の捉え方です。
「太極拳は武術、哲学、健康法、芸術といった多面体であるが、私は太極拳を
«健康法»として捉えたい。何故ならば、人間にとって健康は全ての基本。科学技術が発達し忙しい日本人にこそ、ゆったりとした太極拳が必要なのです」と、語られたのが強く印象に残っています。
「一人の強い宮本武蔵を育てるよりも、万人の健康作りに太極拳を役立たせたい」とのお言葉通り、技の競い合いをせず、心身の調和を求める健康法としての太極拳を貫きました。ゆったりとした語り口、話の間合のねり方は絶妙で、聞く人の心をホッとさせる説法でした。
楊麻紗

楊名時先生のエピソード(2)
禁酒禁煙
日本武道館での教室は、地下にある柔道場でしたので畳の部屋でした。太極拳の指導者は、楊先生お一人。30名の太極拳について何も知らない初心者を相手に、楊先生は前に立ったり後ろに回ったり、ある時は足元が見えないからと言われて台に登ったりと、孤軍奮闘されたものです。
最初は木曜日の夜だけでしたが、後に金曜日のクラスが増え、月2回の稽古は8年間続き、この間楊先生は一度も休まず太極拳の指導をされました。太極拳の指導を契機に、お好きだったタバコをきっぱりと止められました。
しばらく経ってから、楊先生に伺いました。
「先生、タバコはなかなか止められないと聞きますが、簡単に止められたんですか」
「吸っている人を見ると吸いたいと思った時もあったけど、健康法を教える指導者が体に悪いタバコを吸っていたんでは示しがつかない。また、タバコは呼吸法によくない。太極拳は呼吸法が大切だからね。だから止めたんだよ」とおっしゃっていました。
楊名時太極拳の研修、合宿は禁酒禁煙です。太極拳の稽古を続けているうちに、いつの間にかタバコが自然に止められたと言う人が増えてきました。
楊麻紗


名時先生のエピソード(1)
出会い
太極拳の師であり夫であった楊名時先生のエピソードを紹介し、45年に及ぶ太極拳の足跡を辿ってみたいと思います。
私は太極拳を知る前に、中国語の学生として楊名時先生に出会いました。ちょうど20歳の時です。日中の国交が回復していないこともあってか、中国語を学ぶ人が少なく”変わった人だネ”と友人に思われていたようです。
当時、池田勇人首相が所得倍増計画を打ち出し、それに向かって日本人が猛烈に働き出した頃でした。そんな時代の1966年(昭和41)の春、「日本武道館で健康法としての太極拳教室が開かれるので、君たち来ないか」と中国語の授業中に誘われ、見学のつもりで武道館に行きました。
初めて見る太極拳の動き。あまりのスローさに驚いてしまいました。と同時にゆっくりとした太極拳が、はたして日本人の気質に合い定着することが出来るのかなというかすかな心配も起こりました。
しかし、楊名時先生の春風駘蕩のお人柄、人を惹きつけるカリスマ性、品格のある太極拳の舞いに私の不安は消えたのです。この人物ならば不幸な日中関係を改善する力になるのではないだろうか、という直感がひらめき太極拳の弟子になったのです。私の直感は当たりました。
楊麻紗

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